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周瑜
07.03 (Mon) 20 : 54
引用: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
周瑜(しゅうゆ、175年 - 210年)は中国、後漢末の武将。字を公瑾と言い、呉の孫策・孫権の軍師・大都督。尚書令・周栄の玄孫、周興の曾孫、洛陽県令・周異の子、周循と周胤の父。妻は小喬。諡は忠侯。


36年の短い生涯
揚州廬江郡の人。周郎の異名を持ち(孫策は孫朗と呼ばれた)、若くして立派な風采を整えていたので美周郎とあだ名された。またとても鋭い音感をもっており、演奏を聴いていると、たとえ酔っ払っていても僅かな間違えを聞き取った。これより「音を間違えると周郎が振り向く」といわれた。

孫堅が兵を挙げると息子の孫策やその家族を周瑜の家の近くに住まわせた(揚州に居た孫策に周瑜が出会い、そこで仲良くなり周瑜が家を用意し自分の家の隣に住まわせたという説もある)。そのとき周瑜は同じ年で有ったこともあり仲良くなり、「断金の交(金属を断つほどの強い契り)」を結んだ。孫堅亡き後、袁術の元にいた孫策が江東(呉)へ軍を挙げると(194年)、周瑜もこれに付き添い、功績を挙げた。

その後、荊州の皖を攻め落とし、この時、喬公の二人の娘(二喬)の姉の大喬を孫策の、妹の小喬を周瑜の妻にした。孫策が亡くなった後、呉の家臣たちが後を継いだ孫権を仲間気分で扱うことに国家の危機を感じ、一番初めに孫権に臣下の礼をとり、他の者もそれにならったとされる。孫策は「内事は張昭に、外事は周瑜に任せよ」と遺言し、これより呉の大都督となり呉の軍隊をよく整備した。

208年、孫堅を殺害した、孫氏一族にとっての仇である黄祖を討ち取る。その後、呉は最大の危機にさらされる。曹操が83万といわれる大軍を率いて呉へ進軍してきたのである。ここに孫権陣営は真っ二つに割れた。曹操に従順の姿勢を示す不戦論者は内政の長である重鎮・張昭、歩隲、顧雍ら(後ろの二人は後に呉の丞相となる。いずれも国政に非凡であり、周囲の信任篤かった)で、一方の戦争主張論者は周瑜、程普、黄蓋、呂蒙、魯粛、呂範(いずれも孫権に信頼されている者たちであり、軍事に非凡の将ばかりである。程普、黄蓋は呉随一の百戦錬磨の老将であった。この時、周瑜は魯粛と共に孫権に曹操へ対抗することへの重要性、また曹操の大軍へ対抗する時の呉軍の利点や策略などを懸命に解き、呉を曹操に対抗させることに成功したのである。こうして起こった赤壁の戦いでは、呉自慢の水軍を率いて副都督・程普と共に指揮し、自らと程普を第一陣とし、歴戦の将・黄蓋と韓当を先鋒とし、陸からは呂範や呂蒙、陳武らを配備した。そして「苦肉の計」を使い、東風の風に乗じて黄蓋が曹軍の船団に火を放つと曹操の陣はたちまち炎につつまれ、海からは韓当、周泰、蒋欽、徐盛らが、陸からは呂範、甘寧、朱治、董襲らが攻め、83万と称された(実際は20万程度だったと言われる)曹操の大軍を一気に殲滅した。かくして周瑜は(劉備と共同しつつも)ほぼ単独で約83万と言われた魏軍を火攻めにおいて完膚なきに叩きのめしたのである。

それに続いて孫権は呉にとって重要な拠点になろう江陵に目をつける。そこを守るは魏の誇る歴戦の将、曹仁と徐晃であった。さすがにこの二将の守りは堅く、また曹仁も徐晃も勇猛なため簡単には落とせなかったが、周瑜はその機略を以ってうまく曹仁と徐晃の部隊を分けると、自ら曹仁軍を粉砕し(この時、曹仁は万余人の兵を失った)、そのまま江陵を攻め立てるがこの時周瑜は流れ矢を受けて負傷し、それが病へとつながった。だが周瑜は自分が重態であることを知略を用いて有利に持っていき、ついに曹仁・徐晃らを撃破し、江陵より追い出した。これにより孫権は重要拠点・江陵を制圧することができ、またしても魏軍を打ちのめしたのである。しかしこの戦で周瑜はかなりの重態となってしまい、無理を押して孫権の元へ行き、益州の劉璋が惰弱なことから益州を占領し天下を曹操と分けるといういわゆる「天下二分の計」を立てる。が、これが周瑜が孫権への遺言となってしまった。実行に移すべく江陵へ帰還途中に遂に36歳の短き人生を閉じたのだった。

なお、『三国志演義』では、二喬は、喬玄の娘で「江東の二喬」と呼ばれており、姉は大喬、妹は小喬と呼ばれ絶世の美女とされていた。

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周瑜の評価
「三国志演義」の周瑜は、赤壁の戦いでは曹操に降りるように孫権に進言しようとしていたが、交渉に来た諸葛亮の話で「曹操が自分と孫策の妻を欲しがっている」ということを聞かされると、怒り狂って曹操に戦うようにと孫権に進言し呉が曹操と対抗するきっかけを作った。その後諸葛亮と共に赤壁の戦いの策を練るが、諸葛亮に自分が立てた策を全て見透かされたうえ、諸葛亮の暗殺を考えている狭量な人物として描かれている。これは赤壁の戦いの諸葛亮の功労を誇張しようという著者の創作で、実際の周瑜は、演義のような人物でも無ければ、諸葛亮に劣る軍師でもない。むしろ、赤壁の戦いで曹操の大軍に勝利した功労から、軍略においては諸葛亮より上だという評価も近年では肯定されている。また演義では、「天はこの世に周瑜を生みながら、なぜ諸葛亮をも生んだのだ!」と言い放ったとある。

正史においては、周瑜は穏やかな性格の持ち主で度量も大きかったと記されている。また、人の心を掴むことが得意だったらしい。その証拠として、赤壁の戦い時の周瑜と程普の関係がある。程普は孫堅以来呉に使えてきた武勇と知略に優れた宿将であり、また呉の臣の中でも最年長で周りの者から「程公」と慕われていた呉きっての武将である。しかし、この程普は自分よりかなり若輩でありながら高い位にいる周瑜のことを嫌っており、また周瑜の方も程普のことを好いてはおらず、二人の犬猿の仲は呉の中で知らぬ者が居ないほど有名だった。孫権の信頼篤き重臣諸葛瑾はこの二人を赤壁の戦いの司令官とすることを孫権に図ったのである。果たして周瑜は(諸葛瑾の案も借りて)上半身裸となり、鞭を背負って程普の元へ行き、跪いた(「刎頚の交わり」を模したもの)。驚いた程普は周瑜に上着を着せ、手を取って労わり、以後二人は親友の仲となった。後に孫権はこの周瑜が自らが遜って講和をした策を高く評価したという。

また、曹操や劉備は周瑜の才能を恐れ、曹操は家臣の蒋幹を使者として周瑜の引き抜きを図り、劉備は孫権に虚言を述べて、孫権と周瑜を離間させようと図ったほどである。つまり、周瑜はそれほど彼らから危険人物と見なされていたのだ。これらを見てもわかるように、演義における周瑜は諸葛亮を引き立てるための虚像で、実際の周瑜は知略・武略に優れ、誰からも慕われた人物だったのである。実際に、諸葛亮よりも早く天下を分けることを孫権に提案しているのである。そして、それを実行に移す直前に死亡してしまうのだ。もしも周瑜があと一年長く生きていたら、三国鼎立の時代が来たかどうかは疑わしく、後の中国の歴史は大きく変わっていただろうといわれている。しかし、何がどうであろうと、36歳の早すぎる死を惜しまぬ者はいないであろう。
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きょうくぅは、興
きょうくぅは、興殲滅しなかったー。

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