双龍蓮泉

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大伯皇女について
03.18 (Sat) 15 : 59
我が背子(せこ)を、大和へ遣(や)ると、さ夜(よ)更(ふ)けて、暁(あかとき)露(つゆ)に、我れ立ち濡れし
【意味】
私の弟を、大和へやってしまうのを見送ろうとしていると、夜も更け、明け方の露に濡れてしまいました・・・。

神風(かむかぜ)の、伊勢の国にも、あらましを、何(なに)しか来(き)けむ、君(きみ)もあらなくに
【意味】
伊勢の国にでもいたほうがましなのに、どうして来てしまったのでしょう。あの方はいないのに。

見まく欲(ほ)り、我がする君も、あらなくに、何しか来けむ、馬疲るるに
【意味】
会いたいと思う君ももういないというのに、どうして帰ってきたのでしょう。馬も疲れるというのに。

うつそみの、人にある我れや、明日よりは、二上山(ふたかみやま)を、弟背(いろせ)と我が見む
【意味】
この世に生きている私は、明日からは二上山(ふたかみやま)を弟だと思って見るのでしょうか・・。

磯の上に生ふる馬酔木(あせび)を、手(た)折らめど、見すべき君が、在りと言はなくに
【意味】
岩のほとりの馬酔木を手折ってあなたに見せたいのに、あなたが居るとはもう誰も言ってはくれない・・・。

二人行けど行き過ぎ難き秋山を いかにか君がひとり越ゆらむ
【意味】
二人で行っても寂しくて越えがたい秋山を今頃どの様にしてあなたは一人で越えているのであろうか
詠み人:大伯皇女   万葉集より

【大伯皇女について】
大来皇女(おおくのひめみこ、大伯皇女とも表記 661年2月15日(斉明天皇7年1月8日) - 702年2月2日(大宝元年12月27日))は、天武天皇皇女。母は天智天皇皇女の大田皇女(持統天皇の同母姉にあたる)。伊勢斎宮。大津皇子の同母姉。『万葉集』に謀反人として倒れた同母弟の大津皇子を想う歌を6首残している。 三重県名張市の夏見廃寺(国史跡)は、「大来皇女が発願し、725年に完成した昌福寺(『薬師寺縁起』)」とされている。大伯皇女は、飛鳥時代の皇室の人です。斉明天皇7年(661年)1月8日、朝廷をあげて一向が白村江の戦いへ向かう最中に岡山県の大伯海で生まれました。父は天武天皇、母は大田皇女(天智天皇の娘・持統天皇の同母姉)です。大伯皇女は当時の天智・天武系の多くの皇子・皇女のうちで生年月日がはっきりわかっている唯一の皇女です。弟の大津皇子も福岡県の那の大津というところで生まれているらしいところから姉弟ともに地名から名付けられていることがわかります。当時、皇族の名は乳母の名から付けられたらしいところをみると、彼らには乳母がいなかった可能性がある、かもしれません・・。大伯皇女の悲劇は、母、大田皇女の死に始まります。大伯皇女7才のときでした。その後は、弟・大津皇子とともに天智天皇に引き取られ、可愛がられていたようです。 大伯皇女は、実在する初代斎宮です。壬申の乱の戦勝を感謝するために選ばれました。しかし、その政治的意味は、女帝候補を減らす目的があったと思われます。大伯皇女は、天武天皇と天智天皇の血をひく、最高の地位にいました。大伯皇女が有力な血筋の皇子(高市皇子など)と結婚すると、大津皇子の強力な後ろ楯になってしまいます。そうすると草壁皇子(讃良皇女の子で大津たちの従兄弟にあたる)の皇太子の地位が危うくなるのです。讃良皇女(後の持統女帝)にとって格好の制度であっただろうと考えられます。大伯皇女は泊瀬というところで潔斎をし、伊勢に赴いています。 大伯皇女は13歳のときにト定(選ばれ)され、26歳で飛鳥に戻ってくるのですが、その退下の理由は天武天皇崩御だけではなく、「大津皇子刑死事件」によるものでした。「大津皇子刑死事件」とは、686年(朱鳥元年)天武帝の死後、殯(もがり=お葬式)の最中に大津が謀反を謀ったとされ、 10月2日に発覚、3日に死刑にされた事件です。身内に不幸があった場合、斎宮の任は解かれるのです。大伯皇女は母を幼くしてなくしたばかりではなく、父と弟を同時に亡くすという不幸にみまわれます。天涯孤独になった大伯皇女はその後どうしていたかは全く不明です。個人的な想像ではその後、大津皇子を二上山に葬り、その子粟津王を育て上げたのではないかと思います。父天武(大海人vs大友)と弟大津(草壁vs大津)の皇位継承争いを目の当たりにし、嫌な目に合ってきた大伯皇女はそれを二度と繰り返さぬよう粟津を育てたのではないでしょうか。その後、『豊原氏系図』によると粟津王は豊原氏に繋がっていくようです。大伯皇女は、大宝元年(701年)12月27日に亡くなったという記事が出ています。 41歳になっていました。彼女の人生をみると可愛そうでなりません。それでも与えられた中で精一杯生きたであろう彼女の強さや哀しさが万葉集に詠まれています。大伯皇女ゆかりの寺が名張にあります。父・天武天皇の菩提を弔うために作られた昌福寺が夏見廃寺と考えられています。夏見廃寺は、出土遺物から7世紀末から8世紀にかけて作られたと考えられています。夏見廃寺を建て父だけでなく大津皇子の菩提を静かに弔っていたのかもしれません。今は夏見廃寺跡は、国史跡に指定され、夏見廃寺展示館では「天上の虹」のアニメなど様々な展示がされています。
鏡王女について
03.17 (Fri) 15 : 11
秋山の、木(こ)の下隠(がく)り、行く水の、我れこそ益さめ、御思ひよりは
【意味】
秋山の木陰を流れて行く水のように静かに、わたくしのほうこそ、あなたさまのことをもっともっと思っていますわ。

玉櫛笥(たまくしげ)覆ふを安み明けていなば君が名はあれど我が名し惜しも
【意味】
お化粧箱を蓋で覆うように、二人の仲を隠すのはわけないと、夜が明けきってからお帰りになるなんて。そんなことをなさったら、あなたの評判が立つのはともかく、私の浮名の立つのが惜しいですわ。

風をだに恋ふるは羨(とも)し風をだに来むとし待たば何か嘆かむ
【意味】
訪れたのが風にすぎなかったとしても、恋しがる相手がいるのは羨ましい。風だけでも、来ないかと待つ相手がいるなら、何を歎くことがありましょう。

神奈備(かむなび)の石瀬(いはせ)の社(もり)の呼子鳥いたくな鳴きそ我が恋まさる
【意味】
神なびの石瀬の杜の呼子鳥よ、そんなにひどく鳴かないで。私の恋心がつのってしまう。

【鏡王女について】
鏡王女(かがみのおおきみ、? - 天武天皇12年7月5日(683年8月5日))は藤原鎌足の正妻。代表的な万葉歌人。『万葉集』では「鏡王女」・『日本書紀』では、「鏡姫王」と記されている。鏡女王とも呼ばれる。
鏡王女の素性は額田王以上に謎に包まれており、額田王の姉という説があるが、『日本書紀』には二人が姉妹だという記述はなく、確証はない。そのため、近年では二人の姉妹説を積極的に支持する研究者は見られなくなってきているようだ。しかし、額田王の父・鏡王との血縁関係はなかったとしても、同じ「鏡」という名が付いている事から、同じく、鏡を作る氏族に養育された可能性はある。 また、鏡王女には舒明天皇の皇女だという説もある。最初、天智天皇の妃だったが、後に藤原鎌足の正妻となる。鎌足の病気平癒を祈り、天智天皇8年(669年)に山階寺(後の興福寺)を建立した。『日本書紀』の七月の項に「丙戌の己丑(四日)に、天皇、鏡姫王の家に幸して、病を訊ひたまふ。庚寅(五日)に、鏡姫王薨せぬ」とあり、天武天皇が見舞いに来たが、その翌日の天武天皇12年7月5日に亡くなった事がわかる。『万葉集』には四首の歌が収録されている。天智天皇・額田王・藤原鎌足との、歌の問答が残されている。「神奈備の石瀬の社の呼子鳥いたくな鳴きそ我が恋まさる」は、「神奈備の石瀬の社の呼子鳥よ、そんなに激しく鳴かないでおくれ。私の恋しい思いが募るばかりだから」という意味である。この歌は、鏡王女が鎌足の死後、彼を思って作った歌だという説がある。
但馬皇女について
03.16 (Thu) 15 : 03
(この歌は、但馬皇女が穂積皇子への恋心を詠んだものです。)
秋の田の、穂向きの寄れる、片寄りに、君に寄りなな、言痛(こちた)くありとも
【意味】
秋の田の稲穂が片方に傾くように、あなたに寄り添っていたい。たとえ人がなんと噂しようとも。
詠み人:但馬皇女 万葉集より

(この歌は、穂積皇子が志賀の山寺に遣わされたときに、但馬皇女が穂積皇子を想って詠んだものです。)
後れ居て、恋ひつつあらずは、追ひ及かむ、道の隈廻に、標結へ、我が背
【意味】
あとに一人残されて、あなたのことを想っているよりは、あなたを追いかけて行きます。だから、道のかどかどに印(しるし)をつけてください、皇子(みこ)さま。

(この歌は、但馬皇女が穂積皇子に会いにいったときの歌です。)
人言を繁み、言痛(こちた)み、おのが世に、いまだ渡らぬ、朝川渡る
【意味】
人の噂が辛くても、いえそれだからこそ。生まれて初めて、あの人に会うために冷たい水の流れる朝川を渡ります。

【但馬皇女について】
生没年 ?~708(和銅1)
天武天皇の皇女。母は氷上娘(中臣鎌足の女)。
持統十年(A.D.696)以前、「但馬皇女の高市皇子の宮に在す時、穂積皇子を思ふ御作歌」他3首(02/0114~0116)がある。異母兄高市皇子・穂積皇子との間で三角関係があったらしい。0115題詞には「穂積皇子に勅して近江志賀寺に遣はす時」とあり、また0116には穂積と但馬の密通が発覚したとある。穂積の志賀寺派遣を、但馬皇女との密通発覚により勅勘を被ったものとみる説もある。和銅一年(A.D.708)6.25、薨ず。この年冬、穂積皇子がよんだ悲傷歌がある(02/0203)。万葉には他に、巻8に1首あり(08/1515)、また04/0505の安倍女郎の歌を、藤原浜成撰『歌経標式』は但馬皇女の作とする。

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