双龍蓮泉

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明智光秀
07.08 (Sat) 19 : 36
引用: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

明智 光秀(あけち みつひで、享禄元年(1528年)? - 天正10年6月13日(1582年7月2日))は、戦国時代、安土桃山時代の武将。通称は十兵衛。幼少時の名は桃丸。

明智光秀 凡例

時代 戦国時代
生誕 享禄元年(1528年)?
死没 天正10年6月13日(1582年7月2日)
別名 十兵衛(幼名)。惟任日向守(通称)
官位 日向守
主君 斎藤道三、朝倉義景、足利義昭、織田信長
氏族 土岐氏、明智氏
父母 父:明智光隆。母:お牧の方
兄弟 信教、康秀
妻 煕子
子 明智光慶、筒井定頼、明智自然丸、
明智乙壽丸、明智倫、津田信澄妻、
明智玉子、筒井定次妻


系譜
生年は不詳であるが、光秀死後かなりのちの江戸時代に書かれた軍記文学『明智軍記』に記載された辞世の句とされる漢詩に「五十五年夢」とあることから、1528年に推定されることもある。『明智系図』によれば、清和源氏の流れである土岐氏一族の明智氏の出自である。明智氏の本家は、光秀の祖父の弟頼明の系統で、江戸時代沼田藩主などを務めた大名家である。この明智氏の本家が土岐家の本家でもある。

最初の妻は、従妹の千草(山岸光信の娘)とも言われ、その子光重が山岸家を継いだとされる。2番目の正室は妻木広忠の娘の煕子。二人の間には、織田信澄室、細川忠興室玉子(細川ガラシャ)、嫡男光慶(玄琳)がいる。3番目の正室は柘植城主喜多村保光の娘(伏屋姫)で、二人の間には喜多村弥平兵衛(江戸町年寄の一人)がいる。ほかに側室がおり、何人がの子供がいたというが、実際は正室しかいなかったのでは?という考えもある。さらに、三宅長閑斎(叔父の明智光廉)の娘二人が養女となり、長女・次女として扱われている。

その末裔は、男系としては、喜多村弥平兵衛と側室の子(明田姓から明智姓に復している)の系統があり、女系としては、細川ガラシャの系統がよく知られ、現在の細川護煕元首相に続く(忠興の後継者細川忠利はガラシャの三男なのだが、養子により直系は途切れている)。光秀の長女・次女の系統まで含めれば、末裔は少なくない。

生涯

織田家仕官以前
青年期の履歴については不明な点が多いが、通説によれば、美濃国の守護土岐氏の一族で、戦国大名斎藤道三に仕えるも、弘治二年、道三と子義龍の争いに際して道三方に味方したため、義龍に明智城を攻められて一族が離散。その後浪人して足利将軍家、のち越前国の朝倉氏に仕える、となっている。
足利義昭が最初に姉婿の武田義統を頼り若狭に、さらに越前の朝倉氏に逃れてくると、光秀は義昭と接触をもつ。光秀の母は武田義統の姉妹と伝えられ、また朝倉義景の母も若狭武田氏の出であり、それで義昭の接待役を命じられたものと考えられる。義昭は、朝倉に上洛を期待していたのであったが義景は動かず。そこで光秀を通して織田信長に対し、京都に攻め上り自分を征夷大将軍につけさせるよう要請した。光秀は、叔母が斎藤道三の夫人で、信長の正室である斎藤道三娘(濃姫)とは従姉妹関係にあったので、その縁を頼ったのである。

その他、大友宗麟の指揮下に名を留めているという資料もある。

織田家に仕官
信頼できる史料によると、1569年頃から木下秀吉(のち羽柴に改姓)らと共に織田氏支配下の京都近辺の政務にあたったとされる。義昭と信長が対立し始めると、義昭とたもとを分かって信長の直臣となり、数々の戦功をあげて1572年頃近江国滋賀郡を与えられ、坂本城を築城してこれを居城とした。1575年には惟任(これとう)の姓、日向守(ひゅうがのかみ)の官職を与えられ、惟任日向守と称す。

城主となった光秀は、石山本願寺や信長に背いた荒木村重、松永久秀を攻めるなど近畿の各地で転戦しつつ丹波国の経略を担当し、1579年までにこれを平定。丹波一国を与えられて丹波亀山城・横山城・周山城を築城すると共に、丹後の長岡(細川)藤孝、大和の筒井順慶ら近畿地方の織田大名の指揮権を与えられた。近年の歴史家はこの地位を関東管領になぞらえて「近畿管領」とも呼ぶ。1581年には京都で行われた信長の軍事デモンストレーションである「馬揃え」の運営を任され、この職務を全うした。

本能寺の変
1582年、羽柴秀吉の毛利征伐支援を命ぜられて出陣する途上の六月二日(西暦6月21日)早朝、主君である信長が宿泊していた京都の本能寺を急襲して信長を自害させた。また二条御所において、信長の嫡男の織田信忠や京都所司代の村井貞勝らを討ち取っている。

山崎の戦い
京都を押さえた光秀だったが、協力を求めた細川藤孝や筒井順慶の光秀への対応は期待に沿うものではなかった。そしてみずからの新政権の統制を整備する間も無く、本能寺の変から11日後の六月十三日(西暦7月2日)、変を知って中国地方から引き返してきた羽柴秀吉の軍と戦う。(山崎の戦い)

主君信長を殺した光秀に付く信長旧臣は少なく、羽柴軍との兵数差を覆す事ができずに敗れる。同日深夜、坂本を目指して落ち延びる途上の小栗栖(京都市伏見区)で落ち武者狩りの土民の手にかかり殺されたとされる。享年55。「される」とするのは2点で疑問符が付くからである。

「光秀のもの」とされる首が夏の暑さで著しく腐敗し本当に光秀かどうか確かめようがなかったこと。
落ち武者狩りが本当に相手が光秀だと知って殺害したのか不明であること。これが後述の「南光坊天海になったという異説」につながる。勧修寺晴豊の日記の一部「天正十年夏記」によれば、光秀の首はその領民が拾い、晴豊が秀吉側に提出した、としている。晴豊が、同じ「天正十年夏記」に堅田で捕らえられ京中を引き回されている斎藤利三を見て、「信長打倒の談合の相手」と述べていることから「本能寺の変」の共同謀議者であると解釈する説もあり、晴豊の行動は、光秀を死んだことにして守ろうとした行為とも考えられる。そうかといって、光秀がその後も生きつづけたという可能性は低く、妙心寺に残る、自害しようとしたという伝承からすると、そこで自害した可能性が高い。
辞世の句「順逆二門に無し 大道心源に徹す 五十五年の夢 覚め来れば 一元に帰す」


光秀の謎

愛宕百韻の真相
愛宕百韻とは、光秀が本能寺の変を起こす前に京都の愛宕山(愛宕神社)で開催した連歌会のことである。この連歌会で光秀は謀反の思いを表したといわれているが、謎が多い。また、この連歌会に出席した里村紹巴など光秀以外の出席者にも不可解な行動が多い。ここでは、愛宕百韻の不可解な点や、まだはっきりとしていないことについて記す。

光秀はこの連歌会で時は今 雨が下しる 五月哉という発句を詠んでいる。この句を土岐は今 天が下知る 五月哉とかけているとし、「土岐家出身であるこの光秀が、天下に号令する」という意味合いを込めた句であるという説がある。しかし一概にそうであるとは言えず、ただ単純に情景を詠っただけとも言えないことはない。また、光秀は「時は今 雨が下なる 五月哉」と詠んだいう説もある。

本能寺の変の原因
本能寺の変でなぜ光秀が信長に謀反をしたのか、さまざまな理由が指摘されているが、確固たる原因や理由が結論として出されているわけではない。以下に現在主張されている主な説を記す。

(1)長年の恨み説

明智光秀は主君・織田信長と相性は良くなかったらしいとされる。頭髪が薄かった容姿を、しばしば「きんかん頭」とからかわれた。奥床しい、と称される性格は、陽性の秀吉に比べやや陰性の感もあり、遠ざけられていたと言われる。
俗説に、
信長に酒を強要され、下戸の光秀が断ると「わしの酒が飲めぬか。ならばこれを飲め」と刀を口元に突き付けられた。
丹波八上城に人質として光秀の母親を預けて、身の安全を保障した上で降伏させた元八上城主の波多野秀治・秀尚兄弟を、信長が勝手に殺害。激怒した八上城家臣は光秀の母親を殺害した。
光秀が苦労して用意した家康の為の接待料理を、「腐っている」と信長に因縁をつけられ捨てられた。
甲斐信濃大名武田勝頼征伐の際に、信濃の反武田派の豪族が織田軍の元に集結するさまを見て「我々も骨を折った甲斐があった」と光秀が言った所、「お前が何をしたのだ」と信長が激怒し、小姓の蘭丸に鉄扇で叩かれ恥をかいた。
などがある。
これに加え、本能寺襲撃の直接の引き金になった説として、
中国2国(出雲国・石見国)は攻め取った分だけそのまま光秀の領地にしてもいいが、その時は滋賀郡(近江坂本)・丹波国は召し上げにする、と伝えられた。
というのが原因ではないかとも言われている。
(2)野望説

明智光秀が天下を取りたかったという説。野望のためかは特定されてないか、三回くじを引いた。
(3)信長に対する恐怖心説

長年仕えていた佐久間信盛、林秀貞達が追放され、成果を挙げなければ自分もいずれは追放されるのではないかという不安などから信長を倒したという説。
(4)将軍・足利義昭の指令説。或いは朝廷の令旨説

明智光秀は足利義昭のお供として織田信長に仕えた経歴があり、彼が主に京都近辺で活躍したのは足利義昭主従であった細川藤孝、和田惟政及び興福寺(義昭出家の寺)を支配させるためであったろう。結果的に京追放に関わったとはいえ、恩義も関係も深い義昭から幾度となく誘われれば光秀とて断りにくくなったのではないかという考えによるもの。
1582年頃に信長は正親町天皇譲位などの強引な朝廷工作を行い始めており、また近年発見された安土城本丸御殿の遺構から、安土城本丸は内裏清涼殿の構造をなぞって作られた、という説を掲げる者もいる。これがもし真実であれば、信長には内裏に取って代わる意思あり、と朝廷側にとらえられたとしても不思議は無く、これらの行為に閉口した朝廷から命ぜられれば、光秀とて謀反を考えるのではあるまいかという考えによるもの。
(5)四国説

比較的新しい説。織田信長は明智光秀に四国の長宗我部氏を懐柔させるべく命ぜられていた。そして斎藤利三の娘を長宗我部元親と婚姻関係を結ぶまでこぎつけたが、1580年に入ると織田信長は武力による四国平定に方針を変更し光秀の面目は丸つぶれになった。大坂に四国討伐軍が集結する直前を見計らって光秀(正確には利三)が本能寺を襲撃した(この説は井沢元彦著『逆説の日本史』より抜粋)。
(6)諸将黒幕説

織田家を取り巻く諸将が黒幕という説。徳川家康や豊臣秀吉が主にあがる。家康の場合、信長の命により、長男の信康と正室の築山殿を切腹させられたことが恨みの原因といわれている。家康は三代将軍徳川家光の乳母福春日局を特段に推挙している。福は明智光秀の母方の子で、斎藤利三の正室の子であるから縁戚で重要な徳川の恩人でもある由縁。また家康は光秀と信長とは正反対の性格を見抜き後ろから暗殺を陰謀したといえる。これは家康が小早川秀秋による反逆の陰謀計略で関ヶ原勝利で実証されている。秀吉の場合は、佐久間信盛や林秀貞達が追放され、将来に不安を持ったという説が考えられる。他に少数意見として、細川藤孝や織田信忠が黒幕という説もある。
これらの理由が決定的でない所以として、怨恨説は元になったエピソードが主として江戸時代中期以降に書かれた書物が出典であること(すなわち、後世の憶測による後付である。例えば、波多野秀治の件は現在では城内の内紛による落城と考えられており、光秀の母を人質とする必要性は考えられないとされている)も事実であるが、織田信長・豊臣秀吉を英雄とした明治以来の政治動向に配慮し、学問的な論理展開を放棄してきたことが大きな理由であろう。

近年、立花京子は「天正十年夏記」等をもとに、朝廷すなわち誠仁親王と近衛前久がこの変の中心人物であったと各種論文で指摘している。

一方で、正親町天皇が信長、秀吉と相互依存関係を築くことにより、失墜していた朝廷の権威と窮乏していた財政事情を回復させたことに示されるように、信長と朝廷の間柄は険悪といったわけではなく、信長の死は必ずしも朝廷の望むところではなかったとする見方もある。以上、核心に近づきつつあるのは確かであるが、この場で断言できる段階ではない。

ただし、本能寺の変はいずれにしても、知将と謳われた光秀にしてはあまりに稚拙な行動であり、計画的な謀反ではなかったということだけは事実である。なお、「敵は本能寺にあり」と言ったのは光秀ではなく、後年、頼山陽が記した言葉である。

南光坊天海説
光秀は小栗栖で死なずに南光坊天海になったという異説がある。南光坊天海は江戸時代初期に徳川家康のブレーンとして活躍した僧で、その経歴には不明な点が多い。異説の根拠として、日光東照宮に光秀の家紋である桔梗の彫り細工が多数あること。日光に明智平と呼ばれる区域があること。秀忠の秀と家光の光は光秀の名に由来してつけたのではないか、という推測。光秀が亡くなったはずの1582年以後に、比叡山に光秀の名で寄進された石碑が残っていること。僧であるはずの天海が着たとされる鎧が残っていること、などが挙げられている。

しかしこれらの説も決定的とは言えない。以下反論の例を列挙すると、桔梗の紋は加藤清正など多くの武将が使用しており光秀の紋とは限らないこと。秀忠の秀と家光の光も、羽柴秀吉など多くの武将が使用していること(特に秀忠の「秀」は、兄秀康同様、秀吉の一字を貰ったものであろう)。明智平は明地平という地名が転じたという説もあり根拠に乏しいこと、などである。光秀という名前を持つ人物は他にもおそらくいるであろう。天海は比叡山にいたという説もあり、天海が僧兵として鎧を着たことがあってもおかしくはない。

また、もし異説が真実だとすれば、南光坊天海=明智光秀は116歳(記録では108歳で没)で没したことになり、いささか無理が生じる。某テレビ番組にて行われた筆跡鑑定では、「血縁者に多い筆跡の類似点は多数見受けられるが、同一人物とは考えにくい」と判断された。

天海が明智秀満と同一人物とされる説もあるが、このほうはかなり有望である。秀満は、三宅が本姓という意見もあるが、実際には最初に遠山景玄、次に母方を継いで三宅弥平次、さらに光秀の娘婿となってから明智秀満を名乗っている。景玄の父遠山景行(第12代明知城主-恵那市明智町)は、俗書にある光秀の叔父明知光安のことである。本件については、Wikipediaの「明智秀満」を参照されたい。それに異論を唱える方が少なくないが、それは遠山氏など関係者が光秀との関係を曖昧にせざるを得なかった時代背景があったからである。

天海が秀満というもっとも大きな理由は、天海の用いていた家紋が遠山家(丸に二つ引両)と三宅家(三宅輪宝)のものだからである。この二つの家紋は、上野の慈眼堂(両大師堂)や川越の喜多院でいつでも見ることができる。家紋は苗字と同じであり、自らの出自と異なるものを用いることは通常はない。年齢的にも、秀満と天海は一致する。先にあげた2000年8月6日に放映の「世界ふしぎ発見」で行われた筆跡鑑定の結果では、天海と光秀は同一人物ではないが、親子のような近親者であるという。これも、天海と秀満を結びつけるものである。

また天海を取り巻く人脈も、秀満をうかがわせるものばかりである。まず、斎藤利三の娘(春日局)については、その密接な関係はよく知られているとおりである。天海が祈願所として家康に推挙した浅草寺の住職忠豪和尚は、第11代明知城主でその後、北条早雲に仕えるために関東に移った遠山直景の子である。直景の系統は江戸城代として、綱景-政景-直景と続く。春日局の同僚官僚で、同じく天海を師と仰ぎ、家光擁立に協力した英勝院は、実際にはその後のほうの直景の娘である。天海が天正18年ごろに入った川越の城主大道寺政繁の妻は、綱景の娘である。その川越に徳川関東移封後、兄重忠とともに入り、その後川越城主として常に天海の身近にいたのは酒井忠利である。その妻は、明知遠山と隣接する三河足助城主鈴木重直の娘であるが、秀満の弟遠山利景の妻も同じく鈴木重直の娘である。なお、忠利の妻は家康の妹光源夫人とも称されるが、これは重直の妻が家康の大叔母(松平久子)で育ての母だからである。

以上の事柄から、天海と秀満が同一人物であるとする説の信憑性が高いことが解る。仮に二人が同一人物でないとすれば、天海が秀満かのように装い、周囲の秀満を知る者もそれを承知していたということになるが、そのようなことはありえないからである。よって現在判明している資料から判断する限りでは、この説が天海の素性に関して最も有力とされている。


光秀の人物像
光秀が、西近江で一向一揆門徒と戦ったとき、明智軍の兵18人が戦死した。その後光秀は戦死者を弔うために、供養米を西教寺に寄進した。西教寺には当時の状態のままで寄進状が残されている。他にも光秀は戦で負傷した家臣への見舞いの書状が多数残されている。このような家臣への心遣いは、他の武将にはほとんどみられないものであった。こうした家臣を思う気持ちが、光秀の家臣の堅い忠誠に繋がったと思われる。実際に、光秀の家臣団は、本能寺の変でも一人も裏切り者を出さなかった。山崎の戦いでも劣勢にも関わらず奮戦したといわれている。

光秀は、光秀が信長を討ったことに関しては、寝静まって無防備な本能寺を襲ったことから卑怯な騙し討ち(明智軍1万3000に対し、信長軍は数百)に等しい行為だったということもあわせ、「主君殺し」の汚名で語られることが多い。また、本能寺の変を起こした後に光秀に味方した者が京極高次や武田元明といった信長に排除された旧時代の名族だけしかおらず、細川藤孝ら縁戚にまでことごとく離反されたことを鑑みても、当時から光秀の行為はただの謀反としてしか映らなかったということを如実に示している。

しかし一方では、実際は諸学に通じ和歌・茶の湯を好んでいた文化人であったこと、また内政手腕に優れ、領民を愛して善政を布いたといわれ、現在もかれの遺徳を偲ぶ地域が数多くある。

光秀は信長を討った後、上洛すると京周辺の朝廷や町衆・寺社などの諸勢力に金銀を贈与した。また、洛中及び丹波の地の地子銭(宅地税)の永代免除という政策を敷いた。これに対し正親町天皇は、変のあとわずか七日間の間に三度も勅使を派遣している。 『明智光秀公家譜覚書』という史料によると、この時期に光秀は参内し、従三位中将と征夷大将軍の宣下をうけたとされる。

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今さらに、雪降らめやも、かぎろひの、燃ゆる春へと、なりにしものを
【意味】
今さら雪が降ったりしましょうか。かげろうが燃える春になったんだもの。
詠み人:?  万葉集より

置きて行かば、妹はま愛し、持ちて行く、梓の弓の、弓束にもがも
【意味】
置いて行ったら君がかわいそうだよ。持ってゆける梓の弓の、弓束だったらいいのに。
詠み人:?  万葉集より
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02.28 (Tue) 10 : 54
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